「夙川の春 (最終話・前編)」
2012年4月10日 時の小説・2012~四,「孤郷」
その地を去る者、残る者。
両者の明暗は大きく分かれる。
去る者は自らを迎える新たな土地、生活、仲間に心躍らせるが、
残る者に与えられるものは廃れた土地、寂しい生活、去った仲間、得るものなど一つもない。
去る事よりも、その地に残る事の方がよほどの勇気を必要とされる事だ。
午前六時、まだ日の顔かすかに覗く時刻に、一面の桜並木の下に立っている。
この夙川が一年で最も多くの観光客を迎える季節、春が来た。
そして私は今日、この地を去る。
夙川の桜が一日に一度「自分だけのもの」になる時が、日の出もままならぬこの時間である。
押し寄せる花見客たちは、この朝の冷気と静寂に彩られた美しい桜を知らない。
彼らは喧騒と相槌に汚された桜しか知らない。
ほとりを見ると、新しい家が建っている。
運搬車の誘導をしていた男性はいつの間にか居なくなっていた。
あれだけ疎ましく思っていたのに、居なくなった日になぜだか寂しく感じた事を覚えている。
ポケットに手を入れると、三万円が入っている。
昨日、理花が東京に行く餞別としてくれたものだ。
「焼け石に水だけど、今まで色々買ってもらったから」と彼女は笑っていた。
頼む。
僕が去る事で君が少しでも傷つくのなら、その傷をせめてもの優しさに変えてほしい。
心の中で祈る。
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