「イースト・ムーヴ(後)」
 

朝からよく晴れていた。
新たな門出を祝すべき陽気だが、そうではない。
私は今日、この街から逃げ出すのだ。
 
引っ越し業者のトラックが停車する音が聞こえ、インターホンが鳴る。
振り返ると、マスクを付けてタンス裏を掃除していた美穂が凄い形相でこちらを見ている。
彼女の表情から察する限り、今回の引っ越しも結果当日までに間に合わなかったと言える。
 
次々と荷物が運び出され、空っぽの状態になっていく自分の部屋を見ながら、
ふと自分が何も感じていない事に気づく。
そう、夙川を出たあの時とは違う。
私はこの部屋を去る事に何の悲しみも感じていない。
だがこれでいい。
昼夜止まらぬ工場の音、取り囲むように頻発した工事、次々と現れた迷惑な隣人たち、
ここで悲しみを抱いたら、この二年間、苦しみ続けた時間が無駄になってしまう。
 
すべての荷物を運び出し、部屋を出る。
最後に部屋に鍵をかけようとした瞬間、思わずその手を止める。
今、この扉を閉めることに何の抵抗も感じていなかったからだ。
ここで閉めれば、もう二度と部屋の光景を見る事はできないのに。
この二年を全否定する寂しさが、この二年を懐かしむ寂しさを殺すようにこみ上げてきた。
 
もう一度部屋の中を見て、ゆっくりと扉を閉め、鍵を回す。
そう、これでいい。
これまでも同じように過去を捨ててきた、これからもそうだ。
もう一度、あの川に美穂と行きたい。
沈む夕陽を眺めながら、
ありったけの人生観と倫理観を彼女がうんざりするまで聞かせてやるのだ。

「イースト・コール」

冷たい闇の中で目を覚ます。
枕のそばから電話の鳴り響く音が聞こえてくる。
私の眠りはこの音楽によって妨げられたのだろうか。
 
応答するとすぐに、向こうの者は私の寝起きの声に気づいた。
彼女は私のだらしない生活習慣を理解している数少ない人物である。
 
理花の声を聞くのはちょうど一年十ヶ月ぶりとなる。
夙川を去る前日に、最後の挨拶に訪れた時以来の会話である。
もう二度と聞く事もないと思っていたが、掛かってくるかもしれないとも思っていた。
彼女には全くと言っていいほど女友達がいない。
なかなか切り出そうとしなかったが、声の調子から電話の理由は明らかだった。
入籍を目前に他の女と遊んでいた婚約者に関してである。
両親への挨拶も済ませ、男の家に越す準備をしていた彼女はひどく動揺し、
かつての彼女からは想像もできない「自信がなくなった」という言葉まで漏れ、
さすがに私も「自信をなくすなら男選びの方だ」とは言えなくなった。
 
電話を切る寸前、過去に私達が一緒に暮らしていた頃、
彼女が交際していた男の本性を私が暴いた事があった事を引き合いにして、
消え入るように彼女は言った。
 
「剛が夙川にいてくれれば…こんな事にはならなかったかもしれない」
 
「イースト・ムーヴ(前)」
 

引っ越しの荷造りを始める。
過去に三度引っ越しているが、当日までに荷造りを終えた事は一度もない。
どれだけ早く始めても、どう分類して良いのか分からない荷物が必ず最後まで残るのだ。
今日は事情を聞いた美穂が呆れて手伝いに来てくれた。
特にやましい物はないが、なぜか人に自分の所持品を公開するのは落ち着かない。
 
「来週引っ越したら、次から会うのが楽になるね」と美穂が言う。
自分の願望は意地で押し通す女だが、思えば困った時はいつも助けてくれたように思う。
そう、私が欲しいのはこれだ。
困った時は話を聞いてほしい、傷ついた時はそばにいてほしい。
日頃に愛想を振りまいて、いざという時にそっぽを向く人間はクズだ。
彼らとは、もう関わりたくない。
 
当初は引っ越し先の街を勝手に変えた事に激怒していた美穂だが、
夕陽の傾いた多摩川に連れて行くと、一転してあの街が気に入ったようだった。
そう、私はこの街を出る、何という思い出もないままに。
多大な虚しさを背負って逃げていく事になるのだろうと、すでに今から予感していた。
 
「イースト・ラン」
 

また川のほとりを走る。
陽が沈み、暗くなってからの方がスピードが出る事に気づく。
横を流れる緑色の川が見えないからか、自分の心と正面から向き合える気がした。
 
走る事はいつも私を無心にしてくれるが、それでもぼんやりと思い出す勲章が一つある。
それは中学最後の運動会、八百メートル走で優勝した事だ。
あの死んだ男と最後に会話を交わした、燃えつくような日の記憶である。
その勝利はいつも私の心の中で金字塔として光を放ってきたが、
時々ふとそれが良かったのか悪かったのか分からなくなる時がある。
もしあのとき負けていれば、それを糧に私はその後もっと強くなったかもしれない。
 
この汚れた川の横を走るのも今日で最後となる。
明日からは引っ越しに備え、荷造りを始めねばならない。
このゴミ箱のような街を抜け出す日がついに来たというのに、
それが自らの力によるものでない事だけがただ虚しかった。

「イースト・フェイト」

河村と新橋で食事する。
電車の振動で机が揺れる古い居酒屋だった。
昔の話、馬の話、一通り話したところで河村が一つ悩みを打ち明け始めた。
それは、ある女性との結婚を考えていた矢先に運命的な出会いをしたという話だった。
恋の話は苦手である。
自らの助言が他人の運命を左右すると思うと、歯切れが悪い。
だが、おそらくは長年付き合ったその女性と結婚するだろうという事だった。
思えばこの男の誠実な一面は、出会った頃から全く変化していないのだと思った。
 
神は恐ろしい。
理性と本能という共存しえない両者を人に与えた。
神は恐ろしい。
誠実な者ほどより多くの誘惑が集まるよう人に仕向けた。
 
最後に気になる情報を一つ聞いた。
夙川の理花が先日、交際していた男と別れたのだという。
「結婚するかもしれない」と自慢げに話していたあの医者だ。


「イースト・ソング」
 

不動産屋ほど侮れない相手はいない。
彼らは嘘を言わないが、本当の事も言わない。
美穂と部屋探しに出たが、彼女の要望に従って特に愛着のない街に来てしまった。
コンビニが遠い、子供がうるさい、など次々に不動産屋に苦情をぶつける美穂を見て、
彼女は自分にとって都合の良い物件を探しているのだと気づく。
 
物件巡りを終えて駅に向かう途中、商店街に差し掛かる。
所狭しと立ち並ぶ古い商店に、我先にと行き交う人々。
「便利じゃないの」と美穂は喜んだが、日々ここを通ると思うと急に息苦しくなった。
部屋に帰って地図を見ると、今日探した町の奥に多摩川という川が流れている事を知る。
昔、同じタイトルの歌をどこかの部屋で聞いた事を思い出す。
そう、私を夙川に呼び寄せたあの傲慢な女の部屋でだ。
 
今日探した全ての物件をキャンセルして、翌日、川のほとりの物件で即決した。
心のどこかで夙川に次ぐ川を求めていたのかもしれない。
美穂は心底あきれていた。


「イースト・ゴースト」
 

真隣に建つアパートを訪れる。
四方をマンションに囲まれ、太陽からも孤絶された古いアパートである。
誰かに会いに来たわけではない、ただそこで何かを見たのだ。
今は誰もいない荒れ果てた和室の中で、確かに私は誰かを見た。
 
狭く暗い廊下を渡り、一番奥の部屋へと向かう。
窓から覗く和室の中は、ふすまは破れ畳は黒ずみ、一向に人を迎える気配がない。
だが時に、こういう和室の中からは人の気配とも思える歴史を感じる事がある。
新たな入居者を待つ美しいマンションには決してない、人々が生きた歴史を感じるのだ。
 
その時、分かった、私がこの部屋に見た誰かは私自身だと。
まだ小学校に入って間もない頃、建てられたばかりの自宅から逃れるように、
古いアパートに住む友人の元を訪れ、日が沈むまで帰ろうとしなかった自分自身だと。
陰り切った部屋を見て、そこに友人もその家族もいなくなった事を確認した後、
もしあの頃が生涯で一番幸せだったのならと思うと途端に怖くなった。


「イースト・アイズ(後)」

夏が過ぎても彼女は職場を辞めなかった。
聞けば心変わりした男の提案で結婚そのものが流れたのだという。
彼女は特に悲惨になる事もなく、ただ空っぽになっていた。
これまで順当に階段を昇り続けていた彼女が一瞬にして地に堕ちた様は、
異様とも言うべき静かで恐ろしい迫力に満ちていた。
 
彼女は一つ、また一つと私に悩みを打ち明けるようになった。
最初は子供が嫌いなのに仕方なく幼稚園に入った事、
いつしか触れ合う度に子供たちの事を好きになっていた事。
結婚したら何があっても夫を支えていこうと心に誓っていた事。
そしてひと月が経つ頃、彼女は私の部屋に身を寄せるようになっていた。
今、思えば私は彼女にとって打ってつけの迷路だったのかもしれない。
迷路とは前に進んでいる間はひとときの安堵に救われるものだ。
そして私は彼女が壁にぶつかりそうになる度に道を開いてゆく。
だが、そこに決して出口はない。
 
夙川を去ったあの日、瞳は「この街できっと幸せになるから」と笑っていた。
だが今日、こうして便りが来るという事は、
彼女はかつて自分が歩んだ幸福の道を今も探しているのだ。
最後の輝きを放つ夙川を背に微笑む彼女の姿が忘れられない。


「イースト・アイズ(前)」
 

瞳とは大学時代、同じ夙川のアルバイトを通じて知り合った。
一年後に結婚を控えた幼稚園教師として彼女は職場に来た。
私より二歳年上だったが、職場では私の方が二年先輩だった。
聞けば結婚式の規模を少しでも大きくしたいと思いこの職場に来たのだという。
一度、研修中に彼女の婚約者が現れた事もあった。
長身で好感の持てる男性で、穏やかな彼女とも合う波長を持っていた。
 
その後、私達は同僚として色々な話をしたが、
私が彼女に持った印象はただ「普通」でしかなかった。
程々に綺麗で程々の結婚をして程々の幸福を夢見ている。
それこそを最大の幸福と呼ぶ人は多いが、その「普通」こそが私にはくせものだった。
これまで一度も真っ当な路線に乗り上げた事のなかった私からすると、
それは遥かに見下してきたものであり、密かに羨むものでもあった。
 
彼女の婚約が壊れたのはそれから一ヶ月後の事である。


「イースト・マーク」
 

瞳からメールが来る。
連絡が来るのは夙川を去って以来、十ヶ月ぶりとなる。
本文には「元気にしていますか?新しいアドレス、登録お願い致します。」
と書かれている。
一見普通の変更通知だが、一つ真意を計れない箇所がある。
この最初の文末に付いている「?」。
これは誰にでも付けられた疑問符なのか、
それとも私の現況を探るために付けられたマークなのか。
どちらなのか分からない、分からないからこそ答えは後者である気がする。
 
彼女は上京前に会った最後の人物である。
この疑問の答えが後者である限り、彼女があの頃と何も変わらない事の証明なのだ。
時は一年半前・・・再び夙川に遡る。

 
「イースト・ノイズ」
 

左耳がまた聞こえなくなる。
同じ病にかかるのはこれで生涯三度目となる。
一度目は大学受験の冬、二度目は卒業論文の冬だった。
そして今回は隣で始まった建設工事がようやく終わりを迎えた冬である。
当初、半年間の予定を三ヶ月延長して建てられたマンションは、
私のマンションよりも遥かに高く美しい物件だった。
私が部屋に閉じこもって九ヶ月余り、
その間にこんな壮大な作品が完成してしまうのかと思うと虚しさで気が遠くなった。
 
部屋に来た美穂が一枚の紙をにやけながら手渡す。
読むと「当マンションの改装工事のおしらせ」という紙だった。
どうやら隣の工事が終わった事を好機に三ヶ月間の外壁工事を開始するのだという。
すぐに耳鼻科の予約を入れ、東京の路線地図を手に取った。
次に行く街を決めるのだ。


「イースト・スイサイド(後)」

 
彼は私をいじめようとした唯一の人間である。
何事においても中心に立たなくては気がすまない男だった。
その彼の王政に唯一従おうとしなかった私が気に食わなかったのだろう。
私を屈させようと、彼は機会を見ては何度も挑んできた。
 
だがある時、私は彼の思わぬ一面を知る。
それは中学最後の運動会、八百メートル走が始まる直前だった。
優勝を狙う私は同じ長距離部のライバルの動向に目を光らせていたが、
なぜか専門外の距離に出てしまった彼は、
まるで獣の縄張りに迷い込んだ兎のごとく脅えていた。
そして、普段私に対するものとは裏腹の口調でせめてもの慰めを乞いてきた。
それは、これまで負けた事のない男が見せる、負ける事への恐怖そのもの。
彼の中枢をなす心は、彼を覆っていた虚勢という名の装備が強すぎたゆえに、
一切の成長を為していなかったのだ。
 
彼が自殺した後に残ったものは、
膨れ上がった借金と、高校時代に授かった子と妻だけだったという。
そして、彼が死んで分かった事は、恐ろしい事にただ一つだけだ。
それは、死とは死に様によってはまるで尊いものにもならず、
同情すら得られぬまま死者が「永遠の敗者」として心に刻まれてしまう事だ。

 
「イースト・スイサイド(前)」
 

死んだ男の事を考えていた。
関わりはほとんどなかったが、同じ中学の同級生だった。
長身で端正な顔立ち、運動が得意だった。
同じような目立つ男は学年に何人もいたが、彼が他者と大きく違っていた点は、
彼は心から己の事を愛していた。
 
一度、放課後の廊下を彼が全裸で走っていた事を覚えている。
彼は己の全てを他に解放し、またそうした己の全てに陶酔していた。
その男が先日、自殺したというのだ。
 
中学時代、最も強い栄誉を誇った男の死は同級生たちに衝撃を与えた。
同じく私も最初は耳を疑ったが、思えば思い当たる節がないわけでもなかった。
時は七年前に遡る・・・。


「イースト・プロミス」

 
美穂と新宿で会う。
いつも通りレディースのショップをひたすら回った後、
美穂が突然、お気に入りの場所に連れて行ってと言う。
考えた挙句、「面影屋珈琲店」という喫茶店に連れて行く。
一階が喫煙席、地下が禁煙席だった。
「何で煙草吸わない私達が地下に行かなきゃなんないの?」
と割とでかい声で言うので、
ここは隣席との距離があるから一階でも大丈夫だとなだめる。
 
すると美穂が小さな箱を取り出して、見てと言う。
そこには二つの指輪があった。
その日は私の誕生日で、それはペアリングだった。
自分の分まで買うところが何となく美穂らしいと思いつつ、
「ありがとう」と言う。
 
その後、隣の席に若い四人組が座って大声で話し出した。
あまりに声が大きいため、すぐ店を出る事にした。
すると美穂が、
「一年後、もう一度ここに来よう、その時は静かに話そう」
と言った。
それは約束だった。


「イースト・ティアー」
 

また韓国語を話す女の声で目を覚ます。
あまり間の悪いところで起こされると、そのまま布団の中で思慮にふける事がある。
今日考えていたのは昔、飼っていた猫の事だ。
 
名はミミと言う。
だがその猫に関しては、四枚の絵でしか思い出す事ができない。
なぜなら私がその猫に出会ったのは四歳の時であり、別れたのも四歳の時だった。
思い出したのはこの十八年の間で初めてだ、理由は分からない。
一枚目は父と姉が朝早く、野良猫にエサをやっているシーン。
その日、初めてミミは家に来た。 
二枚目はミミが家の台所に大量の糞をして父に追いかけられているシーン。
父は憤慨していたが、私にとっては野良猫を甘く見た父の幼さを象徴するシーンだ。
三枚目はミミがかつお節ごはんを美味しそうに食べているシーン。
 
そして最後は母と姉が泣いているシーンで終わる。
近くの路上でミミが死んでいるのを見つけ、母が連れて帰ってきたのだ。
その日、初めて私は家族が泣くところを見た。
なぜ泣いているのか分からない、なぜ逃げ出したいのかも分からない。
ただ一つ分かるのは、それ以降、私が人の前では決して泣かなくなった事だ。


「イースト・フロム・ウエスト」
 

東京へと向かう新幹線の中は出張を控えたビジネスマンで混み合っていた。
この平日の新幹線の中には社会で地位を築いた者が集うというイメージがある。
夜行バスで見かけるような左右を知らぬ若者とは決して遭遇しない。
 
ある俳優がテレビ番組で、初めて上京した際に、
新幹線の中で聞いていた歌を今も大切にしているという話を聞いた事がある。
私も何かを記念に残してもよかったが、
浮かんでくるのはたださっき捨ててきた町の事ばかりである。
瞳はなぜ見送りに来たのだろうかと考えていた。
彼女なりに秘めた想いがあったのか、それとも、
一人町を去っていく私を哀れに思ってくれたのだろうか。
最後の輝きを放つ夙川を背に微笑む彼女の姿が忘れられない。
 
きっと、これからも思い出を重ねて生きていく。
東京に行き、私の心はさらに汚れ、今より闇に侵されるかもしれない。
それでも歩みを続けていく、自分の信じた道だから。


「イースト・リバー」
 

川のほとりを走る事が日課になった。
汗をかくほど真剣に走るのは長距離部に所属していた中学の時以来である。
あの頃に作った仲間や青春といったものはほとんど後に残らなかったが、
なぜかその時についた筋肉はいつまでも消える事なく足に残っていた。
 
部屋の近くを流れる川はいつも緑。
私の住む町の川は必ず汚いという悪い法則があった。
川を泳ぐ魚たちを見ると、何だか少し申し訳ない気持ちになる。
たとえ私がこの汚れた街から逃げ出せても、
あの魚たちは永久にこの川から抜け出せない。
 
ただ一度だけ、美しい川のほとりに住んだ事があった。
桜の散る春の終わりに、私はその町からここへ来た。
時は四ヶ月前にさかのぼる。


「イースト・ウェイヴ」
 

河村と渋谷に出る。
派手な若者に占拠された街というイメージはあっさりと崩れ、
ただ人が多いだけの街だと気づく。
薄汚れた道路の端に座り込む少年たちを見て、
河村が「もう子供でなくなってから随分と経った気がする」と言った。
 
いつか、この男が高校の廊下にもたれて一人座っていた事を思い出す。
彼は金髪の級友たちが学校をサボると味方がいなくなるだけではない、
教室にいる事さえ許されなくなってしまうのだ。
人は永遠に孤独には勝てない、その彼の顔はそれを物語っていた。
 
きっと、この街には何でもあるのだろうと思う。
希望と絶望、栄光と転落、そのどちらを手にするかは全て自分に掛かっている。
きっと、この少年達に怖いものは何もないのだろうと思う。
だが本当は怖いものが無いのではなく、
本当に怖いものが何かまだ知らないだけなのだ。
本当に怖いものに直面した時、彼らは果たして立ち向かえるだろうか。


「イースト・メモライズン」
 

脳の衰退を覚えるようになった。
以前と同じ要領で記憶のタンスを開こうとしても、
開かないどころかタンスの位置すら思い出せなくなっていた。
外界との交信を完全に絶ち、
人と会話することなく屋内活動に没頭していた私は思わぬ落とし穴にはまった。
 
高をくくっていた。
人は一人では生きていけないとはこういう事なのだ。
しょせん人は人ではなく、人間なのだと痛感した。
脳の腐敗におののいた私はすぐにある男に連絡した。
この部屋と外界とを繋ぐ唯一の男である。
 
 

「イースト・ボーイ」

 
河村と会う。
美穂を紹介した男である。
証券会社に勤めるこの男は大学時代から東京にいた事もあり、
なかなか部屋を出ない私を気の毒に思って様々な誘いを掛けてくる。
かつて私が彼に友人の仲介をした、その恩返しという事になるのかもしれない。
 
高校に入ってまず最初に感じた事は、
各中学別でこれほどまで人格の傾向が分かれるものかという事だった。
幼稚な中学、落ち着いた中学、保守的な中学、奔放な中学。
その点で言うと私の出た中学は最も落ち着いた中学であり、
河村の出た中学は最も幼稚な中学だった。
だが彼は例外だった、三年の夏に横浜から転校してきていたからだ。
その論理から彼の中学時代の孤独を指摘すると、彼は感極まって同調した。
 
そうなるとあの時、麻雀を通じて中学の友人を紹介していた頃、
私が自ら降り積めた恩はあと何度かの誘いで消えてしまう事になる。
 
 

「イースト・シーン」
 

河村の提案で六本木の会合に参加する。
会合と言えど安く言えば合コンである。
大学時代に数度参加し、あまりの気まずさに恐怖症になったあれだ。
だが大学時代に進行のいろはを会得した河村の全面フォローの元という、
有難い条件の下で参加する事になった。
 
メーカー勤務、保険会社勤務、アパレル勤務、
どの業界のグループと面を会わせても共通していた事は、
フリーターと言った瞬間、目が一瞬泳ぐという反応だった。
だが打って変わって反応が良くなったのが大学生の一団である。
暇を持て余す彼女達にとっては、土日だけの社会人より利便性があったのかもしれない。
 
会合の際にまずどちらかを判断しなければならない事柄は、
明らかに短期的な相手を求めて参加している者か。
無謀にも長期的な相手を求めて参加している者かだ。
そのどちらでもこの眼には哀れに映ったが、
そのどちらでもなかったのが美穂だった。


「イースト・ホラー」
 

知人が開いた雑貨店を訪ねて青山に出る。
表参道を急ぐ途中「手相を見せて下さい」と近付いてきた女性がいた。
渋谷から離れて閑静な界隈だが、かえって目立つのがこの路上勧誘である。
手を見せた挙句、中には最終的に高額の商品を買わされたケースもあるのだという。
 
私にとって彼らの存在は、
報道番組で見かける凶悪犯とは一種違った「恐怖」である。
見たところまだ二十歳過ぎの学生である。
この女性が、この笑顔の後に、通行人から金銭をだまし獲る。
一体どれだけの罪悪感を振り払いながら行為に加担しているのか。
あるいは罪悪である事すら認識していないのか。
一体、今までの人生で何を見てしまえばこうなってしまうのか。
あるいは何も見なかったからこうなってしまったのか。
考えれば考えるほど、彼女の存在は私にとって「恐怖」なのだ。

1 2

 

この日記について

日記内を検索