「夙川の春 (最終話・後編)」
2012年4月12日 時の小説・2012~全ての荷物を運び出された部屋は、初めてここに来た当時の状態に戻った。
あの時、現実から逃れる思いでここへ来た時、この地が優しく迎えてくれた事を思い出す。
そしてこの一年、川の静かな流れと共に歩んだこの一年、私は心の底から幸福だった。
何もなくなった部屋に呼び鈴が響く。
鍵の受け取り人が来たのかと扉を開けると、立っていたのは瞳だった。
残酷な女だと思った。
この半年間、あれだけ互いの心から目を背け続けてきたというのに、
それを壊すための訪問だと思った。
だが彼女の目的は違った、駅の改札を通る前から瞳はすでに泣いていた。
残酷な女だと思った。
そして無言で電車に乗り込む、その何倍も残酷な男。
街の景色が流れていく。
鉄橋に差し掛かり、通り過ぎる電車の中から最後に夙川を見た時、
去る者にも失うものが一つだけあることに気づいた。
故郷である。
この地で私は独りだったが、この地を去る事を「寂しい」と感じている自分がいる。
人はきっと、この感覚を故郷と呼ぶのだ。
いつの日か必ず私はこの場所に帰ってくる。
その時はきっと、一人ではなく誰かと。
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