「イースト・ムーヴ(後)」

朝からよく晴れていた。
新たな門出を祝すべき陽気だが、そうではない。
私は今日、この町から逃げ出すのだ。

引っ越し業者のトラックが停車する音が聞こえ、インターフォンが鳴る。
振り返ると、マスクを付けてタンス裏を掃除していた美穂が凄い形相でこちらを見ている。
彼女の表情から察する限り、今回の引っ越しも結果当日までに間に合わなかったと言える。

次々と荷物が運び出され、空っぽの状態になっていく自分の部屋を見ながら、
ふと自分が何も感じていない事に気づく。
そう、夙川を出たあの時とは違う。
私はこの部屋を去る事に何の悲しみも感じていない。
だが、これでいい。
昼夜止まらぬ工場の音、取り囲むように頻発した工事、次々と現れた迷惑な隣人たち、
ここで悲しみを抱いたら、この一年間、苦しみ続けた時間が無駄になってしまう。

すべての荷物を運び出し、部屋を出る。
最後に部屋に鍵をかけようとした瞬間、思わずその手を止める。
今、この扉を閉めることに何の抵抗も感じていなかったからだ。
ここで閉めれば、もう二度と部屋の光景を見る事はできないのに。
この一年間を全否定する寂しさが、この一年を懐かしむ寂しさを殺すようにこみ上げてきた。

もう一度部屋の中を見て、ゆっくりと扉を閉め、鍵を回す。
そう、これでいい。
これまでも同じように過去を捨ててきた、これからもそうだ。
もう一度、あの川に美穂と行きたい。
あの川で沈む夕陽を眺めながら、
ありったけの人生観と倫理観を彼女がうんざりするまで聞かせてやるのだ。

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