「イースト・アナザー・リバー」

一人で川へ向かう。
私をこの町に惹き寄せた、あの大きな川へ。
いつか、中学生の男女が歩いているドラマのワンシーンで見たような、
まるで絵に描いたような川だった。

夙川とは違うと思った。
春には桜の花びらを浮かべ、どこか孤独さを漂わせていたあの夙川とは、
大きさも雰囲気もすべてが違った。
かつて互いの孤独を共有し合うかのように向き合ったあの川とは違い、
この多摩川はまるで全ての人間の孤独を飲み込むほどの雄大さがあった。

川沿いに出ると、鯉の群れが近くに集まってきた。
エサを投げるふりをして腕を振ると、何匹かの鯉が争うように口をパクパクしていた。
横を見ると、老人がハトの群れにエサを与えている。
本当は皆、孤独なのだと思った。

「イースト・サンフラワー(続イースト・レコード・アバウト・デス)」

手紙を書く。
相変わらず汚い字だなと思う。
岩手に帰った元・下階の住人に宛てたものだ。
手紙と一緒に写真を同封する。
庭の草花はすべて刈り取られてしまったが、柵の外にヒマワリが何輪か咲いていた。
きっとあの人が植えたのだ、直感でそう思った。
その写真を送るのだ。

相変わらずお節介だなと思う、相手にもそう思われるかもしれないとも思う。
それでも送った。
「ヒマワリは元気に咲いています」と。
返事はなかった。
それでも良かった。
彼の悲報を聞いたのはそれから一ヶ月後である。

「イースト・レコード・アバウト・デス(下)」

轟音と共に目を覚ます。
驚いてベランダに出て下をのぞく。
下階から次々とタンス、机などが庭に放り投げるように出されていく。
引っ越しではない、明らかに雰囲気が違う。
嫌な予感がした。
一階に駆け下りて、呆然と立っている大家にわけを聞く。
嫌な予感がした。
その時の口述をまとめると、
「下階の住人は末期癌を宣告されて故郷に帰った、荷物は全て捨てるらしい」
という事だった。

放心して部屋に戻る。
相変わらず下の部屋からは物凄い騒音が聞こえている。 
放心したまま、泣いた。
誰のために泣いたかと言われれば、彼のためだったかもしれない。
でもそれだけではなかった。
なぜあの人なのか。
なぜ、幸福を謳歌し尽くした老人や、
罪悪を悔いず繰り返す若者ではなく、
なぜ一人、草花と共に静かに暮らしていたあの人が死なねばならぬのだと思った。
今まで誰の葬式に出ても泣かなかった。
涙は悲しさの象徴、という定義が嫌いだったからだ。
でもその時は泣いた。
きっと、自分以外は誰も泣かないのではと思ったから、勝手に泣いた。

「イースト・レコード・アバウト・デス(中)」

・【引っ越しから約十日後】

静かな日が続く。
下階の住人の元に誰も訪ねて来ないせいもあるが、
彼がほぼ一日勤務に出ているというせいもある。
夜の二時に帰ってきたかと思えば朝の六時に出勤していく。
信じがたい勤務時間。
それでも庭の手入れだけは欠かさない。

・【引っ越しから約二十日後】

珍しく休日のよう。
外から声が聞こえる。
通りがかりの老女と下階の住人が話す声だ。
この草は何だ、この花は何か、という声が聞こえる。
自分の庭に関して説明する男性の声はとても弾んでいた。

・【引っ越しから約三十日後】

下階から激しい嘔吐の声が聞こえる。
飲みすぎたのだろうか。
だが尋常ではない。

・【引っ越しから約四十日後】

庭の草花がすべて消える。

「イースト・レコード・アバウト・デス(上)」

・【引っ越しから一ヶ月前】

現・物件を見つける。
重要項目である隣人の騒音に関しては、
隣部屋とは互いの押入れによって隔てられており、
大家から下階の住人は51歳のドライバーである事を聞く。
何度か物件を下見に訪れる、一階の庭にはたくさんの草花が植えられており、
夜には小さなライト一つで細々と暮らしているようだった。
これなら大丈夫と踏み入居を決める。

・【引っ越し当日】

風雨の強い日。
初めて迎える新居の夜、
吹き荒れる風の音とは別に一定のリズムで聞こえる奇妙な音を聞く。
床に耳をつけ、音を探る。
下階の男性のいびきだと分かる。

・【引っ越し翌日】

下階の住人に挨拶の粗品を届ける。 
ノックしても出てこず、庭の手入れをしている所を見つける。
柵ごしに挨拶の品を差し出すが、「いいよ」と呟いた後、受け取りを拒否される。
せっかく買ったのだからと強引に渡してしまう。

「イースト・ルック」

美について考えていた。
美は人に何をもたらすのか。
美しい者、醜い者、両者の生き様は大きく分かれる。
美しい者はただひたすら自らの美に群がる者たちと共に奢り、
醜い者はただひたすら自らの醜さを嘲笑う者から目を背ける。

美しいと聞いて思い出すのはあの女だ。
かつて私の全てを吸収し、焼却しようとしたあの女。
生まれ持った美があの女から奪ったものは数知れず、
それは一言で言うなら「大切なもの」だった。
そして与えたものは、一見まばゆく、一見華々しく、実際は腐ったものばかりだった。

では人は醜ければいいのか。
万人から醜いと言われる者が幸せなのか。
分からない。
いや、分かるはずだ。
美は心の外側にあり、幸せは心の中にあるのだから。

「イースト・レイン」

外は雨だった。
壁に寄りかかりながら、ただ身体を癒していた。
濡れた服を、電気ストーブの鋭い光が照らす。
机の上には、大量の寿司と菓子が散らばっている。
引っ越しを終えた祝いのために一人でスーパーで買ったものだ。
 
運送は業者に頼んだが、
トラックに積みきれなかった荷を運ぶため、雨の中、長距離を歩いて二往復した。
体力も精神も底を尽きかけていた。
だが底を尽いたのなら、ここから先はただ昇るだけだ。
後はこの雨音と、古い木の香りにその身を委ねる。
今日からこのアパートで暮らすのだ。

「イーストロード」、ここまでの道のり。

 1【East Prologue】:世界のゴミ箱
 2【East Hate】:傲慢な女(1)
 3【East Girl】:ヒロイン登場
 4【East Shrine】:神たる存在
 5【East Horror】:手相を見せて下さい
 6【East Memorizen】:頭脳腐敗
 7【East Boy】:エリート高倉
 8【East Scene】:会合
 9【East Wave】:渋谷の少年
10【East River】:川を駆ける
 0【East From West】:上京
11【East Tear】:ミミの回想
12【East Promise】:面影屋珈琲店
13【East Noise】:左耳
14【East Mark】:「?」
15【East Eyes 1】:普通という事象
16【East Eyes 2】:ひとみ
17【East Ghost】:和室に見た亡霊
18【East Song】:水の旅人よ
19【East Suicide 1】:ナルシス
20【East Suicide 2】:死とは
21【East Fate】:神々のゲーム
22【East Run】:闇は光を暴く
23【East Move 1】:逃避
24【East Call】:傲慢な女(2)
25【East Move 2】:鍵


主な登場人物(第25話・終了時点)

 Ⅰ、剛  主人公・23歳・無職・神経質

 Ⅱ、美穂 恋人・20歳・大学生・ねだり上手

 Ⅲ、高倉 親友・23歳・外資系勤務・キレ者

 Ⅳ、理花 元恋人・25歳・看護婦・傲慢

 Ⅴ、瞳  元恋人・25歳・幼稚園教諭・温和

――――――――――「イーストロード」後半

“現実が壊れていく・・・少しずつ・・・でも確実に”

来週から3年の時を経て、
「イーストロード」後半の連載を始めます。
おそらく前半の淡々としたイメージからは一変すると思います。

連載は何としてでも今年中に終わらせます。
では「イーストロード」後編をお楽しみ下さい。


「イースト・ムーヴ(後)」

朝からよく晴れていた。
新たな門出を祝すべき陽気だが、そうではない。
私は今日、この町から逃げ出すのだ。

引っ越し業者のトラックが停車する音が聞こえ、インターフォンが鳴る。
振り返ると、マスクを付けてタンス裏を掃除していた美穂が凄い形相でこちらを見ている。
彼女の表情から察する限り、今回の引っ越しも結果当日までに間に合わなかったと言える。

次々と荷物が運び出され、空っぽの状態になっていく自分の部屋を見ながら、
ふと自分が何も感じていない事に気づく。
そう、夙川を出たあの時とは違う。
私はこの部屋を去る事に何の悲しみも感じていない。
だが、これでいい。
昼夜止まらぬ工場の音、取り囲むように頻発した工事、次々と現れた迷惑な隣人たち、
ここで悲しみを抱いたら、この一年間、苦しみ続けた時間が無駄になってしまう。

すべての荷物を運び出し、部屋を出る。
最後に部屋に鍵をかけようとした瞬間、思わずその手を止める。
今、この扉を閉めることに何の抵抗も感じていなかったからだ。
ここで閉めれば、もう二度と部屋の光景を見る事はできないのに。
この一年間を全否定する寂しさが、この一年を懐かしむ寂しさを殺すようにこみ上げてきた。

もう一度部屋の中を見て、ゆっくりと扉を閉め、鍵を回す。
そう、これでいい。
これまでも同じように過去を捨ててきた、これからもそうだ。
もう一度、あの川に美穂と行きたい。
あの川で沈む夕陽を眺めながら、
ありったけの人生観と倫理観を彼女がうんざりするまで聞かせてやるのだ。

「イースト・コール」

冷たい闇の中で目を覚ます。
枕のそばから電話の鳴り響く音が聞こえてくる。
私の眠りはこの音楽によって妨げられたのだろうか。

応答するとすぐに、向こうの者は私の寝起きの声に気づいた。
彼女は私のだらしない生活習慣を理解している数少ない人物である。

理花の声を聞くのはちょうど一年ぶりとなる。
夙川を去る前日に、最後の挨拶に訪れた時以来の会話である。
もう二度と聞く事もないと思っていたが、掛かってくるかもしれないとも思っていた。
彼女には全くと言っていいほど友達がいない。
なかなか切り出そうとしなかったが、声の調子から電話の理由は明らかだった。
入籍を目前に他の女と遊んでいた婚約者に関してである。
両親への挨拶も済ませ、男の家に越す準備をしていた彼女はひどく動揺し、
かつての彼女からは想像もできない「自信がなくなった」という言葉が漏れた。
さすがに私も「自信をなくすなら男選びの方だ」とは言えなかった。

電話を切る寸前、過去に私達が一緒に暮らしていた頃、
彼女が交際していた男の本性を私が暴いた事があった事を思い出し、
消え入るように彼女は言った。

「剛が夙川にいてくれれば・・・こんな事にはならなかったかもしれない」

「イースト・ムーヴ(前)」

引っ越しの荷造りを始める。
過去に三度引っ越しているが、当日までに荷造りを終えた事は一度もない。
どれだけ早く始めても、どう分類して良いのか分からない荷物が必ず最後まで残るのだ。
今日は事情を聞いた美穂が呆れて手伝いに来てくれた。
特にやましい物はないが、なぜか人に自分の所持品を公開するのは落ち着かない。

「来週引っ越したら、次から会うのが楽になるね」と美穂が言う。
自分の願望は意地で押し通す女だが、思えば困った時はいつも助けてくれたように思う。
そう、私が欲しいのはこれだ。
困った時は話を聞いてほしい、傷ついた時はそばにいてほしい。
日頃に愛想を振りまいて、いざという時にそっぽを向く人間とは、
彼らとはもう関わりたくない。

当初は引っ越し先の街を勝手に変えた事に憤慨していた美穂だが、
夕陽の傾いた多摩川に連れて行くと、一転してあの街が気に入ったようだった。
そう、私はこの町を出る、何という思い出もないままに。
多大な虚しさを背負って逃げていく事になるのだろうと、すでに今から予感していた。

「イースト・ラン」

また川のほとりを走る。
陽が沈み、暗くなってからの方がスピードが出る事に気づく。
闇が全ての景色を覆い尽くす事によって、自分の心と正面から向き合える気がした。

走る事はいつも私を無心にしてくれるが、それでもぼんやりと思い出すが勲章が一つある。
それは中学最後の運動会、八百メートル走で優勝した事だ。
あの死んだ男と最後に会話を交わした、燃えつくような日の記憶である。
通常の競技会とは違って、校内の大会で勝つ事には大きな名誉が懸かっていた。
その勝利はいつも私の心の中で栄光としてかすかな光を放ってきたが、
時々ふとそれが良かったのか分からなくなる時がある。
もしあのとき負けていれば、それを糧に私はその後もっと強くなったかもしれない。

この汚れた川の横を走るのも今日で最後となる。
明日からは引っ越しに備え、荷造りを始めねばならない。
このゴミ箱のような町を抜け出す日がようやく来たというのに、
それが自らの力によるものでない事だけがただ虚しかった。

「イースト・フェイト」

高倉と新橋で食事する。
電車の振動で机が揺れる古い居酒屋だった。
昔の話、馬の話、一通り話し終えたところで高倉が一つ悩みを打ち明け始めた。
それは、ある女性との結婚を考えていた矢先に運命的な出会いをしたという話だった。
恋の話は苦手だ。
自らの助言が他人の運命を動かすと思うと、歯切れが悪い。
だが、おそらくは長年付き合ったその女性と結婚するだろうという事だった。
思えばこの男の誠実な一面は、出会った頃から全く変化していないのだと思った。

神は恐ろしい。
理性と本能という共存しえない両者を人に与えた。
神は恐ろしい。
誠実な者ほどより多くの誘惑が集まるよう人に仕向けた。

最後に気になる情報を一つ聞いた。
夙川の理花が先日、交際していた男と別れたのだという。
「結婚するかもしれない」と自慢げに話していた、あの医者だ。

「イースト・スイサイド(後)」

彼は私をイジめようとした唯一の人間である。
何事においても中心に立たなくては気がすまない男だった。
その彼の王政に唯一従おうとしなかった私が気に食わなかったのだろう。
私を屈させようと、彼は機会を見ては何度も挑んできた。

だがある時、私は彼の思わぬ一面を知る。
それは中学最後の運動会、八百メートル走が始まる直前だった。
優勝を狙う私は同じ長距離部のライバルの動向に目を光らせていたが、
なぜか専門外の距離に出てしまった彼は、
まるで獣の縄張りに迷い込んだ兎のごとく脅えていた。
そして、普段私に対するものとは裏腹の口調でせめてもの慰めを乞いてきた。
それは、これまで負けた事のない男が見せる、負ける事への恐怖そのもの。
彼の中枢をなす心は、彼を覆っていた威勢という名の防具が強すぎたゆえに、
一切の成長を為していなかったのだ。

彼が自殺した後に残ったものは、
膨れ上がった借金と、高校時代に授かった子と妻だけだったという。
そして、彼が死んで分かった事は、恐ろしい事にただ一つだけだ。
それは、死とは死に様によってはまるで尊いものにもならず、
同情すら得られぬまま死者が「永遠の敗者」として心に刻まれてしまう事だ。

「イースト・スイサイド(前)」

死んだ男の事を考えていた。
関わりはほとんどなかったが、同じ中学の同級生だった。
長身で端正な顔立ち、運動が得意だった。
同じような目立つ男は学年に何人もいたが、彼が他者と大きく違っていた点は、
彼は心から己の事を愛していた。

一度、放課後の廊下を彼が全裸で走っていた事を覚えている。
彼は己の全てを他に解放し、またそうした己の全てに陶酔していた。
その男が先日、自殺したというのだ。

中学時代、最も強い栄誉を誇った男の死は同級生たちに衝撃を与えた。
同じく私も最初は耳を疑ったが、思えば思い当たる節がないわけでもなかった。
時は七年前にさかのぼる・・・。

「イースト・ソング」

不動産屋ほど侮れない人間はいない。
彼らは嘘を言わないが、本当の事も言わない。
美穂と部屋探しに出たが、彼女の要望に従って特に愛着のない町に来てしまった。
コンビニが遠い、子供がうるさい、など次々に不動産屋にクレームをぶつける美穂を見て、
彼女は自分にとって都合の良い物件を探しているのだと気づく。

物件巡りを終えて駅に向かう途中、商店街に差し掛かる。
所狭しと並ぶ古い商店に、我先にと行き交う人々。
「便利じゃないの」と美穂は喜んだが、日々ここを通ると思うと急に息苦しくなった。
部屋に帰って地図を見ると、今日探した町の奥に多摩川という川が流れている事を知る。
昔、同じタイトルの歌をどこかの部屋で聞いた事を思い出す。
そう、私を夙川に呼び寄せたあの傲慢な女の部屋でだ。

今日回った全ての物件をキャンセルして、翌日、川のほとりの物件で即決した。
心のどこかで夙川に次ぐ川を求めていたのかもしれない。
美穂は心底あきれていた。

「イースト・ゴースト」

真隣に建つアパートを訪れる。
四方をマンションに囲まれ、太陽からも孤絶された古いアパートである。
誰かに会いに来たわけではない、ただそこで何かを見たのだ。
今は誰もいない荒れ果てた和室の中で、確かに私は誰かを見た。

狭く暗い廊下を渡り、一番奥の部屋へと向かう。
窓から覗く和室の中は、ふすまは破れ、畳は黒ずみ、一向に人を迎える気配がない。
だが時に、こういう和室の中からは人の気配とも思える歴史を感じる事がある。
新たな入居者を待つ美しいマンションには決してない、人々が生きた歴史を感じるのだ。

その時、分かった、私がこの部屋に見た誰かは私自身だと。
まだ小学校に入って間もない頃、建てられたばかりの自宅から逃れるように、
古いアパートに住む友人の元を訪れ、日が沈むまで帰ろうとしなかった自分自身だと。
陰り切った部屋を見て、そこに友人もその家族もいなくなった事を確認した後、
もしあの頃が生涯で一番幸せだったのならと思うと途端に怖くなった。

「イースト・アイズ(後)」

春が過ぎても彼女は職場を辞めなかった。
聞けば心変わりした男の提案で結婚そのものが流れたのだという。
彼女は特に悲惨になる事もなく、ただ空っぽになっていた。
これまで順当に階段を昇り続けていた彼女が一瞬にして地に堕ちた様は、
ただひたすら静かで恐ろしい迫力に満ちていた。

彼女は一つ、また一つと私に悩みを打ち明けるようになった。
最初は子供が嫌いなのに仕方なく幼稚園に入った事、
いつしか触れ合う度に子供たちの事を好きになっていた事。
結婚したら何があっても夫を支えていこうと心に誓っていた事。
そしてひと月が経つ頃、彼女は私の部屋に身を寄せるようになっていた。
今、思えば私は彼女にとって打ってつけの「迷路」だったのかもしれない。
迷路とは前に進んでいる間はひとときの安堵に救われるものだ。
そして私は彼女が壁にぶつかりそうになる度に道を開いてゆく。
だが、そこに出口はない。

夙川を去ったあの日、瞳は「この街できっと幸せになるから」と笑っていた。
だが彼女は今も、かつて自分が歩んだ幸せの道を探しているのかもしれない。
最後の輝きを放つ夙川を背に微笑む彼女の姿が忘れられない。

「イースト・アイズ(前)」

瞳とは大学時代、同じ夙川のアルバイトを通じて知り合った。
半年後に結婚を控えた幼稚園教師として彼女は職場に来た。
私より二歳年上だったが、職場では私の方が二年先輩だった。
聞けば結婚式の規模を少しでも大きくしたいと思い、この職場に来たのだという。
一度、研修中に彼女の婚約者が現れた事もあった。
長身で好感の持てる男性で、穏やかな彼女と合う波長を持っていた。

その後、私達は同僚として色々な話をしたが、
私が彼女に持った印象は「普通」でしかなかった。
程々に綺麗で程々の結婚をして程々の幸福を夢見ている。
それこそを最大の幸福と呼ぶ人は多いが、その「普通」こそが私にはくせものだった。
これまで一度も真っ当な路線になど乗り上げた事のなかった私からすると、
それは遥かに見下してきたものであり、密かに羨むものでもあった。

彼女の婚約が壊れるのはそれから一ヶ月後の事である。

「イースト・マーク」

瞳からメールが来る。
連絡が来るのは夙川を去って以来、十ヶ月ぶりとなる。
本文には「元気にしていますか?新しいアドレス、登録をお願い致します。」
と書かれている。
一見普通の変更通知だが、一つ真意を計れない箇所がある。
この最初の文末に付いている「?」。
これは誰にでも付けられた疑問符なのか、
それとも私の現況を問うために付けられたマークなのか。
どちらなのか分からない、分からないからこそ答えは後者である気がする。

彼女は上京前に会った最後の人物である。
この疑問の答えが後者である限り、彼女があの頃と何も変わらない事の証明なのだ。
時は一年半前・・・再び夙川にさかのぼる。

1 2 3

 

この日記について

日記内を検索