「イーストロード13」
2012年5月28日 時の小説・2012~「イースト・ノイズ」
左耳がまた聞こえなくなる。
同じ病にかかるのはこれで生涯三度目となる。
一度目は大学受験の冬、二度目は卒業論文の冬だった。
そして今回は隣で始まった建設工事がようやく終わりを迎えた冬である。
当初、半年間の予定を三ヶ月延長して建てられたマンションは、
私のマンションよりも遥かに高く美しい物件だった。
私が部屋に閉じこもって九ヶ月余り、
その間にこんな壮大な作品が完成してしまうのかと思うと虚しさで気が遠くなった。
部屋に来た美穂が一枚の紙をにやけながら手渡す。
読むと「当マンションの改装工事のおしらせ」という紙だった。
どうやら隣の工事が終わった事を好機に三ヶ月間の外壁工事を開始するのだという。
すぐに耳鼻科の予約を入れ、東京の路線図を手に取った。
次に行く街を決めるのだ。
「イーストロード12」
2012年5月23日 時の小説・2012~「イースト・プロミス」
美穂と新宿で会う。
いつも通りレディスのショップをひたすら連れ回された後、
美穂が突然、お気に入りの場所に連れて行ってと言う。
考えた挙句、「面影屋珈琲店」という喫茶店に連れて行く。
一階が喫煙席、地下が禁煙席だった。
「何で禁煙のアタシ達が地下に行かなきゃなんないの?」
と割とでかい声で言うので、
ここは隣席との距離があるから一階でも大丈夫だとなだめる。
すると美穂が小さな箱を取り出して、見てと言う。
そこには二つの指輪があった。
その日は私の誕生日で、それはペアリングだった。
自分の分まで買うところが何となく美穂らしいなと思いつつ、
「ありがとう」と言う。
その後、隣の席に若い四人組が座って大声で話し出した。
あまりに声が大きいため、すぐ店を出る事になった。
すると美穂が、
「一年後、もう一度ここに来よう、その時は、静かに話そう」
と言った。
それは約束だった。
「イーストロード11」
2012年5月21日 時の小説・2012~「イースト・ティアー」
また韓国語を話す女の声で目を覚ます。
あまり間の悪いところで起こされると、そのまま布団の中で思慮にふける事がある。
今日考えていたのは昔、飼っていた猫の事だ。
名はミミと言う。
だがその猫に関しては、四枚の絵でしか思い出す事ができない。
なぜなら私がその猫に出会ったのは四歳の時であり、別れたのも四歳の時だった。
思い出したのはこの十八年の間で初めてだ、理由は分からない。
一枚目は父と姉が朝早く、野良猫にエサをやっているシーン。
この日、初めてミミは家に来た。
二枚目はミミが家の台所に大量の糞をして父に追いかけられているシーン。
父は憤慨していたが、私にとっては野良猫を甘く見た父の幼さを象徴するシーンだ。
三枚目はミミがかつお節ごはんを美味しそうに食べているシーン。
そして最後は母と姉が泣いているシーンで終わる。
近くの路上でミミが死んでいるのを見つけ、母が連れて帰ってきたのだ。
その日、私は初めて家族が泣くところを見た。
なぜ泣いているのか分からない、なぜ逃げ出したいのかも分からない。
ただ一つ分かる事は、それ以降、私が人の前では決して泣かなくなった事だ。
「イーストロード0」
2012年5月18日 時の小説・2012~「イースト・フロム・ウエスト」
東京へと向かう新幹線の中はビジネスマンで混み合っていた。
この平日の新幹線には社会で地位を築いた者が集うイメージがある。
夜行バスで見かけるような左右も知らぬ若者とは決して遭遇しない。
ある俳優がテレビ番組で、初めて上京した際に、
新幹線の中で聞いていた歌を今も大切にしているという話を聞いた事がある。
私も何かを記念に残してもよかったが、
浮かんでくるのはただ今しがた捨ててきた町の事ばかりである。
瞳はなぜ見送りに来たのだろうかと考えていた。
彼女なりに何か想いがあったのか、それとも、
一人町を去っていく私を哀れに思ってくれたのだろうか。
最後の輝きを放つ夙川を背に微笑む彼女の姿が忘れられない。
きっと、これからも思い出を重ねて生きていく。
東京に行き、私の心はさらに汚れ、今より闇に侵されるかもしれない。
それでも歩みを続けていく、自分の信じた道だから。
「イーストロード10」
2012年5月16日 時の小説・2012~「イースト・リバー」
川のほとりを走る事が日課になった。
汗をかくほど真剣に走るのは長距離部に所属していた中学の時以来である。
あの頃に作った仲間や青春といったものはほとんど後に残らなかったが、
なぜかその時についた筋肉だけは消える事なく足に残っていた。
部屋の近くを流れる川はいつも緑。
私の住む町の川は必ず汚いという嫌な法則があった。
川を泳ぐ魚たちを見ると、何だか少し申し訳ない気持ちになる。
たとえ私がこの汚れた街から逃げ出せても、
あの魚たちは永久にこの川から抜け出せない。
ただ、一度だけ美しい川のほとりに住んだ事があった。
桜の散る春の終わりに、私はその町からここへ来た。
時は七ヶ月前にさかのぼる。
「イーストロード9」
2012年5月14日 時の小説・2012~「イースト・ウェイヴ」
高倉と渋谷に出る。
派手な若者に占拠された街というイメージはあっさりと崩れ、
ただ人が多いだけの街だと気づく。
薄汚れた道路の端に座り込む少年たちを見て、
高倉が「もう子供でなくなってから随分と経った気がする」と言った。
いつか、この男が高校の廊下にもたれて一人、座っていた事を思い出す。
彼は金髪の級友たちが学校をサボると威勢を張れなくなるだけではない、
教室にいる事さえ許されなくなってしまうのだ。
人は永遠に孤独には勝てない、その時の彼の顔はそれを物語っていた。
きっと、この街には何でもあるのだろうと思う。
希望と絶望、栄光と転落、そのどちらを手にするかは全て自分に掛かっている。
きっと、この少年達に怖いものは何もないのだろうと思う。
だが本当は怖いものが無いのではなく、
本当に怖いものが何かまだ知らないだけなのだ。
本当に怖いものに直面した時、果たして彼らは立ち向かえるだろうか?
「イーストロード6・7・8」
2012年5月9日 時の小説・2012~「イースト・メモライズン」
脳の衰退を覚えた時期があった。
以前と同じ要領で記憶のタンスを開こうとしても、
開かないどころかタンスの位置すら思い出せなくなっていた。
外界との交信を完全に絶ち、
人と会話することなく屋内活動に没頭していた私は思わぬ落とし穴にはまった。
高をくくっていた。
人は一人では生きていけないとはこういう事なのだ。
しょせん人は人ではなく、人間なのだと痛感した。
脳の腐敗におののいた私はすぐにある男に連絡した。
この部屋と外界とを繋ぐ唯一の男である。
「イースト・ボーイ」
高倉と会う。
美穂を紹介した男である。
彼の性格は同じ苗字の著名な俳優を百八十度回転させたものと考えてよい。
大手企業に勤めるこの男は東京に広いコネクションを持ち、
なかなか部屋を出ない私を気の毒に思って様々な誘いを掛けてくる。
かつて私が彼に友人の仲介をした、その恩返しという事になるのかもしれない。
高校に入ってまず感じた事は、
各中学別にこれほどまで人格の傾向が分かれるものかという事だった。
幼稚な中学、落ち着いた中学、保守的な中学、奔放な中学。
その点で言うと私の出た中学は最も落ち着いた中学であり、
高倉の出た中学は最も幼稚な中学だった。
だが彼は例外だった、三年の夏に東京から転校してきていたからだ。
その論理から彼の中学時代の孤独を指摘すると、彼は感極まって同調した。
そうなるとあの時、麻雀を通じて中学の友人を紹介していた頃、
私が自ら積み重ねた恩はあと何度かの誘いで消えてしまう事になる。
「イースト・シーン」
高倉の誘いで六本木の会合に参加する。
会合と言えど分かりやすく言えばただの合コンである。
大学時代に数度参加し、あまりの気まずさに恐怖症になったあれだ。
だが大学時代に進行のいろはを習得した高倉の全面フォローの元という、
有難い条件の下で参加する事になった。
メーカー勤務、保険会社勤務、アパレル勤務、
どの業界グループと面を会わせても共通していた事は、
フリーターと言った瞬間、目が一瞬泳ぐという反応だった。
だが打って変わって反応が良かったのが女子大生の一団である。
暇を持て余す彼女達にとっては、土日だけの社会人より利便性があったかもしれない。
「会合」の際にまず判断しなければならない事柄は、
軽薄にも短期的な相手を求めて参加している者か。
無謀にも長期的な相手を求めて参加している者かだ。
そのどちらでもこの眼には哀れに映ったが、
そのどちらでもなかったのが美穂だった。
「イーストロード5」
2012年5月7日 時の小説・2012~「イースト・ホラー」
友人が開いた雑貨店を訪ねて青山に出る。
表参道を急ぐ途中「手相を見せて下さい」と近付いてくる女性がいた。
渋谷から離れて閑静な界隈だが、かえって目立つのがこの路上勧誘である。
手を見せた挙句、中には最終的に高額な商品を買わされたケースもあるのだという。
私にとって彼らの存在は、
ニュースで見かける凶悪犯とは一種の違った「恐怖」である。
見たところまだ二十歳過ぎの若者である。
この女性が、この笑顔の後に、通行人から金銭をだまし獲る。
一体どれだけの罪悪感を振り払いながら行為に加担しているのか。
あるいは罪悪である事すら認識していないのか。
一体、今までの人生で何を見てしまえばこうなってしまうのか。
あるいは何も見なかったからこうなってしまったのか。
考えれば考えるほど、彼女たちの存在は私にとって「恐怖」なのだ。
「イーストロード4」
2012年5月2日 時の小説・2012~「イースト・シュライン」
美穂と赤坂で食事する。
和菓子に雑貨、散々ねだられた挙句、
日枝神社の前を通りかかったところで突然、美穂が参拝をしたいと言い出した。
最近、あまりにも不運な事が立て続けに起こるので、
ちょっとでも食い止めたいという彼女の理由にうなずいて、本堂へ向かう。
狭い参道には様々な店、企業、ホテルなどの名称が書かれた旗が並んでいた。
いかに富と権力を得ようと、神たる存在には絶対勝てないという証なのだろうか。
立派な神社だった。
神などというものは決して存在しないと信じている者からすれば、
ため息が出るくらい立派な神社だった。
本堂の前に着き、美穂と並んで手をあわせる。
こうして神を敬う気持ちなど全くなしに、
自分の幸福だけをただ祈りに来た人間はどれだけいたのだろうと思い、手を合わせる。
帰り際におみくじを引く。
「幸運:上昇一途 病気:なおる 願望:早く叶う 商売:成功する」
大吉と書かれたみくじには、未来を祝福する言葉がただ延々と並んでいた。
まるでこの先、何の努力をせずとも幸福は約束されていると書かれているかのように。
「イーストロード3」
2012年4月30日 時の小説・2012~「イースト・ガール」
美穂が部屋に来る。
今日もまた、宇宙船に乗り込んだような不思議そうな顔をしている。
一週間、健全なキャンパスライフを送ってきた彼女からすれば、
一週間、全く変化していないこの部屋の光景が珍しいのだろう。
彼女は毎週土日にやって来て、
月曜にこの部屋に住む変人の観察記録を友人たちに発表しているらしい。
普段、足場がなくなるまで決して掃除をしない割に、
いざ掃除すると一つの糸くずも見逃さなくなる私が面白いのだという。
今まで散々毛嫌いされてきた私の細かな性質が面白いのだという。
時々、何の悪気もなく手痛い一言を浴びせてくる時もあるが、
何の悪気もないフリをして浴びせてくる人間よりましである。
なぜならその時、その場所に悪魔はいないのだから。
「イーストロード2」
2012年4月25日 時の小説・2012~「イースト・ヘイト」
冷たい闇の中で目を覚ます。
隣の部屋から、韓国語を話す女の声が聞こえてくる。
私の眠りは、あの声によって妨げられたのだろうか。
先日、隣に越してきた一家の妻である。
入居してきた当初から窓を開け放ち、
ありとあらゆる騒音を昼夜放出している。
今日も夫と請求書の支払いに関してもめているのだ。
一度だけ、この女と廊下ですれ違った事がある。
何とみすぼらしい女かと思った。
あたかもこの世にありうる希望の全てを捨て去ったかのような風貌をしている。
こんな女を抱いている男がいるというのも信じられない。
全てを捨てたこの女と、全てを欲したあの女とでは、どちらが醜いと言えるだろう。
いや、実際はこの女の心も、欲望にまみれきっているのだ。
「イーストロード1」
2012年4月23日 時の小説・2012~「イースト・プロローグ」
時々、ここは世界のゴミ箱ではないかと思う。
昼夜うごめく工場の群れ、欲望に浸り溺れる若者達、生気の無い大人達の顔。
田舎の過疎地帯になら、まだ老人と田園に造られた静寂という名の救いがあるだろう。
だがこの町に救いは一つもない。
ただ時が止まったままの廃墟の町。
自力で抜け出すまで、救われる事など決してない。
そう、ここは世界のゴミ箱なのだ。
東京に来て、もう五年の月日が流れる。
私の静かな歩みなど、気を許せばあっという間にこの闇に飲まれてしまいそうだが、
それでも記そうと思う。
この五年、堕落と快楽の記憶。
「夙川の春 (最終話・後編)」
2012年4月12日 時の小説・2012~全ての荷物を運び出された部屋は、初めてここに来た当時の状態に戻った。
あの時、現実から逃れる思いでここへ来た時、この地が優しく迎えてくれた事を思い出す。
そしてこの一年、川の静かな流れと共に歩んだこの一年、私は心の底から幸福だった。
何もなくなった部屋に呼び鈴が響く。
鍵の受け取り人が来たのかと扉を開けると、立っていたのは瞳だった。
残酷な女だと思った。
この半年間、あれだけ互いの心から目を背け続けてきたというのに、
それを壊すための訪問だと思った。
だが彼女の目的は違った、駅の改札を通る前から瞳はすでに泣いていた。
残酷な女だと思った。
そして無言で電車に乗り込む、その何倍も残酷な男。
街の景色が流れていく。
鉄橋に差し掛かり、通り過ぎる電車の中から最後に夙川を見た時、
去る者にも失うものが一つだけあることに気づいた。
故郷である。
この地で私は独りだったが、この地を去る事を「寂しい」と感じている自分がいる。
人はきっと、この感覚を故郷と呼ぶのだ。
いつの日か必ず私はこの場所に帰ってくる。
その時はきっと、一人ではなく誰かと。
「夙川の春 (最終話・前編)」
2012年4月10日 時の小説・2012~四,「孤郷」
その地を去る者、残る者。
両者の明暗は大きく分かれる。
去る者は自らを迎える新たな土地、生活、仲間に心躍らせるが、
残る者に与えられるものは廃れた土地、寂しい生活、去った仲間、得るものなど一つもない。
去る事よりも、その地に残る事の方がよほどの勇気を必要とされる事だ。
午前六時、まだ日の顔かすかに覗く時刻に、一面の桜並木の下に立っている。
この夙川が一年で最も多くの観光客を迎える季節、春が来た。
そして私は今日、この地を去る。
夙川の桜が一日に一度「自分だけのもの」になる時が、日の出もままならぬこの時間である。
押し寄せる花見客たちは、この朝の冷気と静寂に彩られた美しい桜を知らない。
彼らは喧騒と相槌に汚された桜しか知らない。
ほとりを見ると、新しい家が建っている。
運搬車の誘導をしていた男性はいつの間にか居なくなっていた。
あれだけ疎ましく思っていたのに、居なくなった日になぜだか寂しく感じた事を覚えている。
ポケットに手を入れると、三万円が入っている。
昨日、理花が東京に行く餞別としてくれたものだ。
「焼け石に水だけど、今まで色々買ってもらったから」と彼女は笑っていた。
頼む。
僕が去る事で君が少しでも傷つくのなら、その傷をせめてもの優しさに変えてほしい。
心の中で祈る。
「夙川の冬」
2012年4月4日 時の小説・2012~三,「孤花」
例年ほど、刺すような冷気は感じない。
徐々に冬の誇る鋭さが和らいでいる事に気づく。
冬が力を弱め、夏が力を強め、この夙川も最後は熱だけになってしまうのだろうか。
上流から吹きつける風を凌ぎ、誕生日を迎えた理花の元へと向かう。
贈り物をした時に理花が見せる平然な態度はいつも私の心に衝撃を与える。
もちろん彼女は心から感激した笑顔を見せるが、
それが完璧な演技である事を私は高校時代からの付き合いで知っている。
一年前、彼女と暮らしていた時もそうだった。
週末になるといつも大勢の男たちが飲み会に出る理花を出迎えに来たが、
彼女はそれが特別な事と知っていても、恵まれた事だとは思っていなかった。
理花の美しさは、いつしか優しかった彼女を何処かへ消し去ってしまった。
東京に行くという事は、私にとって理花の元を離れるという意味合いが強い。
私が去れば、彼女が本当は孤独な人間である事を知る者は誰もいなくなってしまう。
だが同時にそれは、彼女の孤独が放つ呪縛から私がようやく逃れる事でもある。
そしてそれは、いつか彼女が優しさを取り戻す日を、私があきらめる時なのだ。
「夙川の秋」
2012年4月2日 時の小説・2012~ニ,「孤眼」
木々の葉々が全て散り去り、夙川のほとりは一面の落ち葉に覆われる。
セミの死骸と落ち葉の残骸が示す「この世の終わり」を踏み締めながら、
ただ終わるだけの日々への虚しさをこの川沿いの道で噛み締める。
乾いた落ち葉のじゅうたんは呼び鈴と何ら変わらぬ役目を果たす。
人が来ればその砕ける音ですぐに分かるのだ。
今日は瞳が来る日だ。
私の部屋は別段狭いわけではないが、
なぜか私以外の人間を拒絶しているようだとよく言われる。
汚れた絨毯、テレビの向き、迫り来らんと立ち並ぶ家具と壁。
大きな座椅子を提供しているにも関わらず「帰れと言われている気がする」らしい。
瞳とは半年前に知り合い、その後すぐに私は東京に行くことが決まっていた。
彼女は「寂しくなるね」と一度言ったきり、
二人の間ではこの事は話題にすら上らなくなった。
彼女の優しさがそうさせたのか、この冷たい部屋がそうさせたのか、
ただ言っても無駄だと思われただけか。
この季節が終わる頃には僕らの恋も終わるだろう。
落ち葉と共に雨に流され川の何処かへ消えてゆく。
後には何も残らない。
「夙川の夏」
2012年3月27日 時の小説・2012~一,「孤炎」
夏の暑さが尋常の域を脱し始めている。
ここ夙川のほとりでも、緑に染まった桜並木の間を大量のセミ達が飛び交い、
何分かに一度、一匹が死に落ちてくるという異様な光景を構えている。
この星は間違いなく、今、終わりに向かっているのだ。
アパートへと続く川沿いの砂道に男性が立ち始めたのは先週の事である。
ほとりに立つ新しい住居の木材の運搬車を誘導するために、
そのためだけに半日間も一人立ちっぱなしなのだ。
講義を早々に切り上げてタイマー冷房を効かせた部屋に、
一刻も早く帰ろうとする私から見れば信じがたい光景だった。
「この世で最も辛い職は」と今問われれば、迷う事なく私はこの男性の職を挙げる。
誰もいない砂道を一人悠々と通っていた頃を惜しみながら、
「ご苦労様です」と男性の横を通るたびに挨拶を掛けるはめになってしまった。
最も私には発する権利もないセリフだが、
日に何度も会う時は言葉を変えて「暑いですね」と笑顔混じりに言うようになる。
そして自ずと顔なじみになり、男性はそれとなく私を引き止めるようになった。
私からすれば「暑い」以外に交わせる話題など一つもないのだが、
逃げる私を男性は必死に食い止め、どうにかして他愛のない話を引き延ばそうとする。
その時悟った、彼にとって最も辛い事は暑い事ではなく、寂しい事なのだと。
【「イーストロード」再開のお知らせ】
2012年3月23日 時の小説・2012~来週より「イーストロード」の連載を再開します。
とは言え「何じゃソレ」という方もいらっしゃると思うので説明すると・・・
「イーストロード」とは過去に当館にて好評(?)をえながら連載された自伝小説です。
内容に関しては半分ホント、半分フィクションという感じで、淡々と進行します。
全50話の予定で、前編25話が2007~2009年に連載されましたが、
長きの時を経てこの度、連載の再開を決めました。
ただ少しブランクが空きすぎたので、
「イーストロード0~25」、及びその前身小説「夙川の一年(全4話)」を、
内容を少し編集した「改訂版」として来週より再連載します。
ご愛顧のほど宜しくお願い致します。