「栄華と滅亡の遺産(前)」
 

突然ですが、私は日本史上最高の音楽家は小室哲哉だと信じています。
と書くと「今さら?」と思われる方がいるかもしれませんが、
それはもしかしたら彼の悲惨な現状から、
彼の偉大な功績を損なって見ていることが要因かもしれません。
 
離婚、慰謝料、事業失敗、大借金負債、作曲能力衰退、
すっかり露出が減った今ですら、時々週刊誌に面白おかしく書かれています。
それによって人々の心には、
「哀れな一人の男」として彼の名が刻まれてしまったかもしれません。
しかし、それでは私が困ります。
なぜなら私の中で、いえ実質現状として彼を超えた人間はまだ現れていないからです。
 

 
今日から音楽について書いていきます、ただし相当不定期です。

  
「アグネスタキオン」
の種付け料がまた上がったそうですね。
今も彼のことを史上最強と謳うファンは多いですが、
私はそういう考え方に対して一種の疑問を持っています。
確かに才能という面では最強と見なせる部分があるかもしれませんが、
たった4戦だけ走って去った馬を最強と呼ぶ事は、本当に理に適っているでしょうか。
他に「フジキセキ」も“幻の3冠馬”という異名を取っていますが、
実際に3冠を獲れていたかなんて誰に分かるでしょうか。
 
対して実際に3冠を獲った『スティルインラブ』
史上たった2頭しかいない3冠牝馬、にも関わらずそれ以降1度も勝てなかったせいで、
引退する時に驚くほど静かに去っていった事を覚えています。
私はこの栄光が色あせようと最後まで走り続けた者よりも、
栄光が色あせる前に早々と去った者の方が伝説となってしまう事に、
寂しさとも言える不条理を感じます。
 
中田英寿の引退に対してよく用いられた「引き際の美学」。
しかしそれは記憶の中にただ美しい形として残ったというだけで、
本質的な功績に関しては何も美しいことではないと思います。
人は忘れる生き物ですから、これらは仕方のないことかもしれませんが、
私は最後まで戦い続けた者達の勇姿をできる限り忘れないようにしたいと思っています。
 
明日は予想ですよ。

 

 
 
 アメリカに生きるマフィア・コルレオーネ一家の栄光と悲劇を描いた名作。
 ある日、NYで絶対的な権力を誇っていたドン・コルレオーネが銃撃された。
 凶暴な長男ソニー、弱気な次男フレド、冷徹な養子のトム達が父の復讐を企てる中、
 家業を嫌っていた奔放な三男マイケルが復讐役を買ってでると言い出して―。

 
 
静かな映画です、愛を告げる時も、人を殺める時も。
この映画が名作として絶対的な地位を誇り続けているのは、
その別次元にあるはずの二者を不気味に共存させているからでしょう。
一家の総大将ドン・コルレオーネ(マーロン・ブランド)は寛大な愛に満ちた人間ですが、
家族の幸福を妨げる者に対しては徹底した殺意と暴力で立ち向かいます。
その信念は到底理解できませんが、おそらくそれが彼らの世界では正義なのでしょう。
その二つの巧みな交互連鎖が、3時間という長丁場を全く飽きさせません。
 
個人的にぐっと来たのは「愛のテーマ」、この映画の話になると必ず流れるあの曲です。
あれが初めて掛かるのが意外にも後半、シチリアの古い農村でようやく流れます。
村にかくまわれている三男マイケル(アル・パチーノ)が農家の美しい娘と出会い、
その日に求婚するという驚愕シーンなのですが、寂しい程のどかな良いシーンです。
 

 
ちなみにアル・パチーノはとても背が低い俳優なのですが、その低さが逆に異様な威圧感をかもし出しています。
まだ見ていない方は、一度ご覧になってみては?

 
 
 
 文明から孤絶した、海青い南の小島。
 磯の香りと明るい太陽の下で、若くたくましい漁夫と、美しい乙女が奏でる恋の牧歌。
 人と自然の神秘的な美との完全な一致に対する憧憬が、
 著者を新たな冒険へと駆りたて、端整な美しさに輝く名作が生まれた。

 
 
 
 
私、今年は十冊の本を読みました。
その内、六冊は文豪といわれる昭和以前の作家たちが書いたものです。
以下がそのリストです。
 
川端康成「雪国」    芥川龍之介「羅生門」    太宰治「斜陽」
夏目漱石「それから」    三島由紀夫「仮面の告白」、 「潮騒」

 
中には難しくて息切れしながら読んだものもありましたが、
中でも最も分かりやすく、最も感銘を受けたのがこの「潮騒」でした。
テーマは私の大嫌いな言葉ですが・・・「純愛」です。
しかしこの作品は「純粋」という一見美しく澄んだものの中にある、
モロさ、冷たさ、残酷さというものを余さず見事に描き抜いています。
「純粋」というものは、暗く淀んだ「汚れ」を知っている人間にしか描けない。
そう感じさせてくれたのは、さすが三島由紀夫です。
 
ところで、この作品を他の三島作品を知っている人が読むと必ず驚くという話を聞きます。
理由は三島由紀夫という作家はとことん曲がった「愛」を描く人だからでしょう。
ではなぜこの幼げな物語をデビュー作でもない作家人生の中間に持ってきたのか。
私の勝手な推測だと、彼は少しだけこう考えていたのではないかと思うのです。
「こんな変な話ばかり書いてる俺が、普通の小説を書いたらみんな驚くだろう」
だとすれば、ありふれた物語しか書けず必死に趣向をこらす作家たちを嘲笑う、
日本史上唯一最高の「逆パターン小説」という事になりますね。
 
 
―――――お気に入りの1カット(編集有)
 
※初江(ヒロイン)との恋を実らせる新治(主人公)への片想いをあきらめた千代子(友人)が
最後の別れを告げるべく早朝の忙しい港へ一人でやって来るシーン


新治が一秒でも永く居てくれるよう祈り、彼女は目を瞑った。
すると彼の許しを願う気持ちが、実は彼のやさしさに触れたいという希望の、仮面を被ったものである事がわかった。
千代子は何を許されたいと願っていただろう。
自分を醜いと信じているこの少女は、とっさにいつも抑えつけていた
いちばん心の底からの質問を、思いがけず口走った。
 
 「新治さん・・・あたし、そんなに醜い?」
 

 
この唐突な質問に対する答えがまた面白いんですよ、ぜひ暇があれば読んでみて下さい。
他のものはまた後日紹介できれば良いです。

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